『豊臣兄弟!』秀吉が生涯悔いる見捨てた尼子勝久と家臣・山中幸盛との信頼関係…第22回を考察 (3/10ページ)
しかも、「せっかくの屍の山」なのだから、磔・串刺しにして境に晒し、敵へ恐怖心を植え付けようと提案したのは竹中半兵衛だったとは。
秀吉は城内の凄惨な遺体を見て「丁重に葬れ」と命じていたのでした。
姉川合戦後、累々と積み重なる遺体をみて呆然とし、比叡山では明智光秀(要潤)が女子供を全員斬り殺した現場をみて言葉を失っていた秀吉のままだったのです。
我が子を刺し殺す母、小刀で自分の首を斬る女性、皆の最期の有様が秀吉の脳内に浮かびます。
秀吉は半兵衛の意見にかすかに頷くだけ。さすがに「よっしゃ〜!かかれ!」とは言えなかったのかも。この行為は秀吉の心にどす黒い澱として溜まります。
史実では、最初の上月城合戦の際、場内には兵士や女子供などの非戦闘員が200人ほど避難し、数ヶ月籠城したと伝わります。城内の兵は、城主・赤松政範の首級を取り、それと引き換えに生き残っている者の助命嘆願をします。
ところが、リアル秀吉は降伏を許しませんでした。信長に政範の首は送ったものの、助命はせずに女性は磔、子供は串刺しにして備前・美作・播磨三国の境目に晒したとされています。(誇張ありという説も)
『羽柴秀吉書状』には
「女子供二百余人、備・作・播州三ケ国之堺目ニ、子ともをハくしニさし、女をハはた物ニかけならへ」
とあります。女子供200人あまり、子供は串刺し女ははた物(磔にする木材)にかけ、国境に晒したという悲惨な内容です。
「戦後処理」のレベルを超えた苛烈な秀吉の行為は、毛利軍の戦意を喪失させるため、信長への忠誠心を示すためだったといわれています。