『豊臣兄弟!』竹中半兵衛の死後、秀吉四参謀はどうなった?謎多き家伝「武功夜話」が伝えるそれぞれの最期 (10/11ページ)
そして1595年(文禄4年)、秀次が謀反の罪により秀吉に誅されると、長康も秀次を弁護したという罪で自害を命じられました。享年68歳でした。
秀吉四参謀として半兵衛・正勝・秀長没後、ただ一人豊臣政権を支えた長康。その人生は、悲劇的結末を迎えたのです。
最後まで秀吉を支えるも非業の死を遂げる長康。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)
長康の死から3年後、秀吉も61歳の生涯を閉じます。死に際して秀吉は、徳川家康をはじめとする諸大名に、秀頼の後事を請願しました。しかし天下は家康のものとなり、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で秀頼は自害し、豊臣氏は滅亡しました。
秀吉四参謀たちは、真に豊臣家の存続を願っていたに違いありません。しかし結論ではありますが、彼らの切なる気持ちは秀吉に届かなかったのです。
最後にそれを象徴するような長康の言葉を紹介して、この記事を終わりにします。そこには豊臣家の将来が暗示されていたのです。
「小田原出陣に先だって若君(鶴松)が誕生した。側室・淀君が母親である。世継ぎの誕生は秀吉を大いに喜ばせた。母親の淀殿の手柄は格別とし、その縁に連なる者たちはいよいよ重用されることになった。