『豊臣兄弟!』で描かれる「安土饗応」事件が本能寺の変の引き金か?史実では何が起きていた (4/8ページ)
光秀は、行事の準備が得意だったようで、その細やかで配慮が行き届いた支度ぶりは信長も認め誉め讃えています。
例えば、天正9年(1581)の正月、安土城下で催された『左義長』という小正月の火祭り行事では「準備が見事、思いもよらない趣向までこらし、細やかで感心した」と信長は褒め称えています。
また、京都で行った派手な軍事パレード『京都御馬揃え』の準備を行ったときも光秀が仕切り、信長はその手腕を誉めています。参加武将は約700名、見物人は約20万人も集ったイベントを成功に導いたのですから、プロデューサー的な才能もあったのではないでしょうか。
そんな光秀が、3日間の饗応の支度で食べ物を腐らせた上に、料理も道具も堀に投げ捨てるとは考えづらいもの。ましてや、「光秀が毒を入れた(もしくは誰かに支持したなど)」としたら、一番に疑われてしまいますよね。
食事に違和感を覚えたような徳川家康だが……(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
史料によって内容が異なる「安土饗応」事件宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、この響宴については
「家康の饗応の準備について、信長はある密室において明智光秀と語っていた。
けれども、信長は元来、逆上しやすく自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質だった。
信長の好みに合わぬ要件で、明智光秀が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめて1〜2度足蹴にしたそうだ。