『豊臣兄弟!』で描かれる「安土饗応」事件が本能寺の変の引き金か?史実では何が起きていた (6/8ページ)
(公式HPより)
〜1582年(天正10年)5月、織田信長が明智光秀に饗応(接待役)を命じ、武田勝頼討伐に功をなした徳川家康や穴山梅雪を安土城にもてなした時の饗応メニューを展示(※館内での展示は、五月十五日の「おちつき膳」「晩御膳」のみ)〜
と説明があり、膳の演出は、
「当時のおもてなしは料理が一度に並べられるので、配膳される際の華やかさが強調されました。さらに膳の演出として様々な飾りをします。」とのこと。
料理を盛る皿の下の台を金や銀で塗り、絵をほどこし、料理にさされた串「亀足(きそく)」にも金色がほどこされ、盛りつけた料理がこぼれることを防ぐ「甲立(かわたて)」は金箔の紙を皿に敷くという豪華なもの。
また、「から花」という造花を用いて華やかさを演出しています。
これらの飾りは、中世の様式を踏襲した「本膳料理」の特徴だそうです。
また、食材は『三鳥五魚』。
三鳥はツル・キジ・ガンのことですが、そのほかにも多くの野鳥・水鳥が用いられていたようです。
五魚はコイ・タイ・スズキ・カレイ・フカのことで、中世の料理書『四條流庖丁書』ではコイはワサビ酢、タイはショウガ酢、スズキならタデ酢など魚の種類により使う調味料まで規定されていたそうです。
これだけの食材はもちろん、使用する膳や器の準備まで全て準備するのは、交通機関は現代のように交通機関が発達していなかった戦国時代、かなり大変だったでしょう。
この「安土天主信長の館」での説明には「支度が行き過ぎだ」と叱責されたという記述もあるそうです。