『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】 (2/9ページ)
ちなみに長秀の正室も信長の五女・報恩院で1580年(天正8年)に信長の命で縁組が決められ、その2年後に輿入れしました。この縁組により、織田家と丹羽家は二重の婚姻関係で結ばれたことになります。
信長が天下統一に向けて突き進んでいる時期だけに、彼がいかに丹羽家を重視していたかがわかるでしょう。また輿入れの際は、既に信長は死去していたため、代わりに羽柴秀吉(池松壮亮)が介添えを行っています。このことも丹羽家と秀吉の信頼関係を物語っているように思われます。
1585年(天正13年)、長秀が51歳でその生涯を閉じました。長重は父の遺領・120万石余を受け継ぐとともに、秀吉から羽柴姓を与えられます。ここまでの長重の人生は順風満帆と言っても差し支えのないものでした。ところが、長重の人生はここから一転します。
同年、越前の佐々成政(白洲迅)征伐に参陣した際、家臣が成政側に内応したとの嫌疑がかけられます。事態を重く見た秀吉は、越前・加賀を没収、長重は若狭1国15万石に減封処分となりました。
また減封にともない長秀以来の家臣たちの多くが秀吉により召し上げられます。そのなかには後に関ケ原で奮戦のすえ討死した戸田勝成や茶人・造園家として名を残した上田重安(宗箇)もいました。
そして2年後の1587年(天正15年)、またしても長重を不運が襲います。九州平定戦の際に今度は家臣の狼藉を咎められ、ついに若狭国も没収。丹羽家に残されたのは、加賀松任4万石のみとなってしまいます。
つまりわずか2年間で、120万石の大大名から4万石の小大名へと転落してしまったのです。こうした経緯から、後世の長重には「愚かな二代目」「苦労知らずのお坊ちゃん」といった、辛辣な評価が下されることになります。