『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】 (7/9ページ)
このように関ケ原合戦における北陸の戦いは、長重の意地もあり複雑な様相を呈しました。ただ、前田家にしてみれば、100万石の大大名としての面目を潰された格好でした。
結局、関ケ原の戦いは東軍率いる家康の勝利に終わります。前田家は関ヶ原の決戦には間に合わず、その原因をつくった長重は改易処分となり、江戸蟄居を命じられたのです。
改易されても終わらない。家康・秀忠に認められ、再び大名へ関ヶ原の戦いから3年後の1603年(慶長8年)、長重は常陸国古渡に1万石を与えられて大名に復帰します。関ケ原の戦いで西軍に与し改易された武将が、大名に復帰できたケースは非常に稀で、長重のほかに立花宗茂ら数人しかいません。
長重が大名に復帰できた理由は、大きく分けて二つ考えられます。
一つは浅井畷の戦いにおける事情を家康が理解しており、その戦い振りを「丹羽家の戦支度は天晴也」と称していたこと。そして長重改易の命を家康とともに降した徳川秀忠が、長重に好意的であったことが挙げられます。