『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】 (6/9ページ)
そして1600年(慶長5年)9月、家康が会津討伐に出陣した隙をつき、石田三成(松本怜生)ら西軍が挙兵します。長重は三成、家康のどちらにもつくと明言せずに、3千の兵とともに小松城に籠城しました。
これに対し利長は、2万5千の兵で小松城を包囲。しかし難攻不落とうたわれた同城を落すことに手を焼くうちに、大谷吉継率いる数万の軍勢が手薄になった金沢を襲うという流言が流れます。
この事態に利長は一部の軍勢を小松城包囲に残し、主力を金沢に帰しました。
長重はこの機を見逃さず、小松城東の浅井畷の湿地帯に伏兵を配し、撤退する前田軍をさんざんに打ち破ります。これが浅井畷の戦いで、長重は父・長秀から受け継いだ軍略の才を見事に開花させたのです。
長重はこの勝利をきっかけに家康への帰順を図りますが、それには前田家との和睦が必要でした。そして利長から弟の猿千代(後の前田利常)を人質として得るのです。
猿千代は利長と同じ利家の子でありながら、母の身分が低いため、庶子として扱われていました。その境遇に同情した長重は、自ら梨を剥いて猿千代にすすめたといわれます。
この後、利長の養子となり加賀藩二代藩主となった利常は、晩年まで梨を食べる度にこの話をしたとの逸話が残っています。長重の人柄が偲ばれる話ではないでしょうか。