『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】 (3/9ページ)
しかし、ここで一つ腑に落ちないことがあります。それは過酷な処分にもかかわらず、長重に対する秀吉の怒りがあまり感じられないのです。
それを裏付けるように若狭1国に減封処分になった年、長重は関白になった秀吉の参内に供奉し、侍従に任官し公家成を果たし豊臣姓を与えられています。
また小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封されるとともに参議・加賀守にも補任。この時期に参議に補せられたのは、長重のほかに蒲生氏郷、長岡(細川)忠興のみでした。
そして加賀一部のみの領有にもかかわらず加賀守に補任され、国持ち大名の格式を与えられていることから、秀吉は長重を見限ったということではなさそうです。
このことから一連の処置は、秀吉が大きくなり過ぎた丹羽氏の勢力を削ぐために行ったものであるとの説も唱えられています。
家康と利長の対立に巻き込まれるも浅井畷で意地を見せる10万石を越える大名に復帰した長重でしたが、この後、改易処分、つまりお家取り潰しという憂き目にあうできごとが起こります。
1598年(慶長3年)、秀吉がその波乱の生涯を閉じると、翌年には豊臣家を支えていた前田利家(大東駿介)が没します。すると前田家を継いだ嫡男・利長は大阪城を発ち、領国の加賀金沢に帰国してしまうのです。
この直後、大坂では大きな緊張感に包まれるできごとが勃発します。利長に代わりに大坂城に入った徳川家康(松下洸平)を、浅野長政(大地伸永)、大野冶長らが襲うとの密告がもたらされたのです。