【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (12/15ページ)
天文23年(1554年)生~寛永3年(1626年)8月6日没
近江の国人・田附源左衛門(たづけ げんざゑもん)の子として誕生し、脇坂安明(やすあき)の養子となります。
はじめ浅井長政に仕えましたが、天正元年(1573年)に滅亡すると明智光秀(要潤)の与力として丹波攻略で武功を立てました。
その勇猛さは「丹波の赤鬼」と恐れられた波多野家臣・赤井直正(あかい なおまさ)から賞されたほどだったそうです。
やがて安治は秀吉こそ出世頭と見込んだのか、頼み込んで羽柴家臣に鞍替えさせてもらいました。願いが叶った安治は大いに奮励し、三木城・神吉城攻めなどで武功を重ねます。
天正6年(1578年)の三木城攻めでは、秀吉から白輪違紋の入った赤母衣を拝領し、以来輪違(わちがい)を家紋としました。
その後も秀吉に従って各地を転戦した安治は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで一番槍の武功を立てます。また柴田勝政(しばた かつまさ。勝家の養子)を討ち取ったとも言われるそうです。
天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦でも武勲を上げたことから、淡路国洲本に3万石を与えられました。
以降は加藤嘉明や九鬼嘉隆(くき よしたか)らと共に水軍衆を率いて、九州征伐や小田原征伐、そして朝鮮征伐などで活躍しています。
