【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (11/15ページ)

Japaaan

続く天正12年(1584年)小牧・長久手合戦や紀州攻めに従軍し、翌天正13年(1585年)の四国征伐では小早川隆景(山本浩司)の与力として伊予国の平定に貢献しました。

こうした活躍により、天正14年(1586年)に淡路国の志知城(兵庫県南あわじ市)と所領1万5千石を与えられ、大名となります。

淡路水軍を掌握した嘉明は、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐に淡路水軍を動員し、それぞれ武功を立てました。

秀吉の天下一統後は文禄の役・慶長の役に水軍を率いて参戦し、各地で奮闘したそうです。

そして秀吉の死後は徳川家康と組んで石田三成らと対抗し、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦でも武功を立てました。

これにより10万石が加増され、伊予20万石クラスの大名として藤堂高虎(佳久創)と並び立ちます。共に築城の名手として知られた二人は仲が悪かったそうですが、互いに切磋琢磨したのでしょうか。

慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、豊臣恩顧の大名である嘉明は留守居役として江戸に留めおかれ、翌慶長20年(1615年)に豊臣家の滅亡を見守るよりありませんでした。

寛永4年(1627年)には会津藩43万5500石に転封され嘉明は、それを推挙してくれた高虎と和解したということです。

そして寛永8年(1631年)9月12日、69歳で世を去りました。

「【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路」のページです。デイリーニュースオンラインは、佐久間盛政糟屋武則豊臣兄弟!片桐且元脇坂安治カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る