【豊臣兄弟!】他責思考のヤバいZ世代武将・秀次(山田涼介)の悪評は罠?史実が語る“悲劇の名君”との落差 (7/10ページ)
素行子山鹿高興 著『武家事紀』 上巻,山鹿素行先生全集刊行会,大正4-7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/946584
順調に出世し秀吉の後継者になったのにその後、天正13年(1585)、秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると、秀次は叔父・秀長とともに副将を任され、秀長が総大将となった四国征伐では、副将として明石より3万を率いて出陣。
獅子奮迅の働きをします。小牧長久手での汚名を返上し、天正14年(1586)には秀吉から「豊臣姓」を授かります。
そして、順調に出世を重ねますが、天正19年(1591)、秀吉の側室・淀殿が生んだ鶴松が数えの3つで亡くなったことで秀次は秀吉の養子となり、正式な後継者としての道を歩み始めます。
けれども、その先は奈落の底が待ち構えていたのでした。
秀次と秀吉との関係は悪化、文禄4年(15965)謀反の疑いからの関白職の剥奪、高野山への追放、切腹の命令。そして、秀次の家族や家臣30人近くが処刑……。
※関連記事:
無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相このあまりにも残忍な処刑により、諸大名や民に広く不安が広がってしまい、豊臣政権の崩壊へと導いていったのでした。
暴走する秀吉のストッパーでもあった秀長は、天正19年1月22日に亡くなっています。
