『豊臣兄弟!』なぜ長宗我部元親は秀長に屈した?史実に残る2人の関係性と「鬼若子」のその後… (3/9ページ)

Japaaan

雑賀衆の指導者・鈴木孫市『太平記英勇傳』(Wikipedia)

秀吉は雑賀衆・根来衆とは以前から小規模な衝突を繰り返していましたが、ついにその平定を目指して大軍を動かしたのです。

羽柴軍はまず和泉国の雑賀衆・根来衆の諸城を攻めます。

このとき秀長は、城に籠城した根来衆に対して懐柔策を行ったことが『宇野主水記』に記されています。

それによると秀長は、「自分に仕える気がある者には還俗を認め、出家したままでいたい者には他所へ逃れる」ことを認めています。

つまり、無用な戦いを避け、できるだけ穏便に事を収めようとしたのです。

秀吉・秀長にとっては、石山本願寺の戦いや、その後の小競り合いを通じて、鉄砲を巧みに使う雑賀衆・根来衆の強さを身に染みて理解していたのでしょう。

秀長の彼らへの働きかけは、そのことを物語っているのかもしれません。

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