『豊臣兄弟!』なぜ長宗我部元親は秀長に屈した?史実に残る2人の関係性と「鬼若子」のその後… (8/9ページ)
元親に降伏を説いた重臣・谷忠澄は、『南海治乱記』の中で、羽柴軍と長宗我部軍の違いを次のように記しています。
「上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。また、兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。国には兵糧がなく、とても上方とは比較にならぬ」
「鬼若子」と恐れられた元親が、秀長の大軍を前にして直面したのは、まさに戦国大名としての国力の差、そのものだったのです。
元親を滅ぼさなかった秀吉こうして四国の雄・長宗我部元親は秀吉の軍門に降りました。しかし、秀吉は元親を滅ぼすことまではしませんでした。
四国は秀吉によって国分けされ、元親には土佐一国が安堵されます。
阿波は秀長とともに元親との和平交渉を担った蜂須賀正勝、讃岐は仙石秀久と十河存保、伊予は毛利家の小早川隆景(山本浩司)らに与えられました。