『豊臣兄弟!』なぜ長宗我部元親は秀長に屈した?史実に残る2人の関係性と「鬼若子」のその後… (4/9ページ)

Japaaan

羽柴軍との間に激戦を繰り広げた太田城跡(Wikipedia)

和泉の諸城を落とされた雑賀衆・根来衆は、紀伊国の低湿地に築かれた太田城に立て籠もります。

城内からの射撃に手を焼いた秀吉は水攻めを行い、堤防の決壊などもあって攻略には約1カ月を要しました。

最後は蜂須賀正勝・前野長康らが説得にあたり、城主・太田左近らが自害することを条件に開城。

このとき、左近ら53名が自害したと伝えられ、こうして紀伊の平定がほぼ終わったのです。

秀長、四国攻めの総大将となる

雑賀衆・根来衆を屈服させた秀吉は、休む間もなく秀長に四国攻めを命じます。

土佐国主の長宗我部元親は、もともとは織田信長(小栗旬)と誼を通じており、信長から四国の切り取り次第を認められていました。

しかし1581年(天正9年)頃になると信長は方針を変更し、元親には土佐一国の支配のみを認める通達を出します。

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