『豊臣兄弟!』「織田家になど生まれなければ」信雄の暴言は単なる創作か?壮絶な半生と父への複雑な思い (4/9ページ)
ところが、その後の信雄の人生を追ってみると、少し不思議なことに気づきます。
1580年(天正8年)には兄・信忠(小関裕太)とともに安土へ赴き、翌1581年(天正9年)の京都御馬揃えでは、信忠に次いで30騎を率いています。さらに同年、信長の命による二度目の伊賀攻めでは総大将を務めました。
信雄の伊賀への無断侵攻は、彼の軽率さや愚かさを示す代表的な失敗として語られているのですが、それにしてはあまりにも早く信長の怒りが解けており、さらにその後も大切に扱われているのです。
つまり、信長は一度の失敗だけで信雄を見限ったわけではありません。むしろ、厳しく叱責しながらも、その後も重要な役割を与えていたのです。
ただ、『豊臣兄弟!』で描かれたように、信雄は何かしらの不満を信長に対して抱いていたとも考えられます。
では、その理由は何だったのでしょうか。ここからは史実に筆者の考察を交えながら、紐解いていきたいと思います。
信雄の人生は決して平坦ではなかったあまり語られることはありませんが、信長には多くの子どもがいました。