『豊臣兄弟!』「織田家になど生まれなければ」信雄の暴言は単なる創作か?壮絶な半生と父への複雑な思い (6/9ページ)
〇信雄:1572年/元服し、北畠具豊を名乗る。
●信忠:1570年代/織田軍の主要な戦いに参加し、織田家後継者としての地位を固めていく。
〇信雄:1574年/長島攻めなどに参加。
●信忠:1575年/織田家の後継者としての地位をさらに確立。
〇信雄:1575年/北畠家の家督を継ぎ、信意と改名。伊勢を中心とする軍事・支配を担う。
●信忠:1577~78年/雑賀攻め、信貴山城の戦い、石山本願寺攻めなどに従軍。
〇信雄:1577~78年/紀州・石山方面などの戦いに参加。
〇信雄:1579年/信長に無断で伊賀へ侵攻し、大敗。
●信忠:1581年/京都御馬揃えに参加。
〇信雄:1581年/京都御馬揃えに参加。同年、信長の命による伊賀攻めで総大将を務める。
●信忠:1582年/甲州征伐で総大将を務め、本能寺の変で死去。
〇信雄:1582年/甲州征伐に従軍。本能寺の変後、信長の遺児らを保護するなどの動きを見せる。
こうして見ると、信雄は信忠の後を追うように、出世し、軍事経験を積んでいったことがわかります。
しかし、二人には大きな違いがありました。
それは、信忠が織田家の後継者として父・信長のもとで育てられたのに対し、信雄は幼くして北畠家の養嗣子となり、伊勢へ送り込まれたことです。
幼くして北畠家へ、そして岳父・北畠具教の粛清へ1569年(永禄12年)、信長は伊勢の名門・北畠氏と戦い、その和睦条件の一つとして、幼い信雄を北畠具房の養嗣子としました。
信雄は北畠家の後継者として伊勢へ入り、やがて北畠家の家督を継ぎます。しかし、これは決して穏やかな人生の始まりではありませんでした。