『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由 (3/10ページ)

Japaaan

徳川信康像/勝蓮寺所蔵(Wikipedia)

さらに、家康が本拠を浜松に移すと、数正は岡崎を任された嫡男・信康の後見を務めます。信康が自害した後も岡崎城代として留まり、徳川家の重要な拠点を任されています。

信康の後見人という立場を考えれば、その死をめぐって数正の責任が問われても不思議ではありません。しかし、少なくとも数正がその後も岡崎城代として重用されたことからは、家康が彼を信頼し続けていた様子がうかがえます。

このように、数正が家康にとって重要な重臣だったことは間違いありません。そして、その信頼を支えていたのは、戦場での働きだけではなかったのです。

徳川家の外交を担った石川数正

家康のもとで、数正は外交面でも重要な役割を果たしました。

家康が今川家から独立した際には、駿府に人質として残されていた正室・築山殿、嫡男・信康を取り戻すための交渉に関わり、織田信長(小栗旬)との同盟をめぐってもその下地つくりを担ったとされます。

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