『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由 (5/10ページ)
1585年(天正13年)、秀吉は関白に就任し、朝廷の権威を背景に大名間の争いを収めようとしました。
戦国大名同士が争うことを禁じ、全ては朝廷首班である秀吉の裁定に従わなければならないという惣無事令で、もし命令に従わないのであれば、天皇に反逆する朝敵と見なされ討伐されても仕方がないという大義名分を掲げたのです。
石川数正に自分が浜松に行くことを提案する秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
ドラマでは、秀吉の命令に難色を示す数正に対して、秀長(仲野太賀)は自分が家康のいる浜松まで頭を下げに行ってもよいと語ります。
関白となった秀吉と、その弟であり政権を支える秀長が、家康との交渉にそこまでの覚悟を示す。その姿から数正は、徳川家がもはや以前と同じ立場ではいられないことを実感したのかもしれません。
外交交渉を通じて秀吉の勢力拡大を間近で見ていた数正なら、その力関係を誰よりも客観的に理解していた可能性があります。
この意味で、『豊臣兄弟!』が描いた数正の葛藤は、当時の政治状況を踏まえた一つの解釈として見ることができるでしょう。
しかし、数正は本当に、秀吉の勢力に圧倒されたという理由だけで家康のもとを去ったのでしょうか。
石川数正はなぜ家康を裏切ったのか石川数正が家康のもとを去り、秀吉に仕えることになった有力な理由については、次の三つの説が一般的です。