『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由 (1/10ページ)
豊臣秀吉(池松壮亮)と徳川家康(松下洸平)・織田信雄(山脇辰哉)連合軍との間で、1584年(天正12年)3月から繰り広げられた小牧・長久手の戦い。
同年11月、信雄が秀吉と単独講和を結ぶと、家康も次男・於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送り、和議が成立しました。
こうして戦いは終結したものの、秀吉と家康の間には、なお冷戦ともいうべき緊張関係が続いていたのです。
そんななか、徳川家中を揺るがす大事件が起こります。
家康の片腕とも称された重臣・石川数正(迫田孝也)が、突如として徳川家を出奔し、秀吉のもとへ走ったのです。
いったい数正は、なぜ長年仕えてきた家康のもとを去ったのでしょうか。
今回はNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の描写も踏まえながら、石川数正の出奔事件の真相について考察します。
家康が最も信頼した重臣・石川数正
石川数正の経歴については、Japaaanでもさまざまな記事で紹介されていますので、ここでは要点に絞って見ていきましょう。
数正は1533年(天文2年)生まれとされ、1543年(天文11年)生まれの家康よりも10歳ほど年上でした。
石川家は松平氏に古くから仕えた譜代の家柄です。