『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由 (2/10ページ)

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数正の一族には、家康の母・於大の方と姻戚関係にある人物もおり、徳川家とは譜代というだけでなく、一門衆的な関係がありました。

そうしたこともあってか、数正は家康がまだ今川家の人質として駿府で暮らしていた時代から、近侍として仕えていたとされます。

桶狭間の戦いののち、大高城に入った松平家康と石川数正(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

桶狭間の戦いの後、家康が三河で独立を果たすと、数正は姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いなど、家康の重要な戦いに関わりました。

なかでも注目したいのが、三河一向一揆の際の行動です。数正は一族の一部が一向宗側につくなか、家康方にとどまりました。このときの経験は、家康との信頼関係を深める一つの契機になったと考えられます。

家康はその後、東三河を酒井忠次(天野ひろゆき)、西三河を石川数正に統率させ、両者を徳川家臣団の中核として位置づけました。

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