はるしにゃんの幾原邦彦論 Vol.3 ウテナと少女革命の真骨頂にゃん (2/5ページ)

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ジェンダー論的な観点から言えば、主体性を認められていないアンシー=女性の環境を、さながらアメリカ公民権運動のように改良しようと奮闘する活動家がウテナなのだ。

また、彼ら彼女らはその決闘の結果、アンシーを手に入れ「永遠」に至ることができると述べ、それを信奉してもいる。これはある種、王子様と少女の「幸福な結婚」とそれによる物語の完結という「シンデレラストーリー」的な物語類型の隠喩である。

幾原邦彦最新作の『ユリ熊嵐』同様「百合」をモチーフとする本作は、そうした「夢物語」を、同性間の関係性と、また象徴的比喩によって脱構築する。

永遠という錯覚、友情という幻想
それはどういうことか。しかし終盤において、「永遠があるという城」が、プラネタリウムのプロジェクターによる幻影でしかないことが明らかになることは、前編で述べた通りだ。

決闘広場の上空に浮かぶこの城が逆さまであったことは、カメラを通したことによる光の屈折であり、すなわち「永遠」なるものの錯覚性がここで映像的に表現されている。

また、こうした欺瞞的な「永遠」への疑義は、「友情」に対しても同様に存在する。作中において、幾度も「本当の友達がいると思っている奴なんてバカだ」といった趣旨の台詞と展開が繰り返されるからだ。

友情もまた永遠ではないのではないか」──これもまた少女という、男性主体よりもずっとコミュニケーションの関係性を重視する生き物が常に生存戦略として思考せねばならない課題である。

あるいは作中で、幼馴染みである桐生冬芽と西園寺莢一というキャラクターの関係性において問われる友情の問題は、ひいては人間という共同存在にとっての普遍的な問題である。ここで問われているのは、人間にとって、単独的でありつつ普遍的な問題、すなわち愛の問題系だ。
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