83歳筆者が考える「ウナギ」問題...たとえ我々の「文化」だとしても (2/7ページ)
ちょうど、今筆者が暮らしている和歌山市近くの海から揚がり、この季節に街の魚屋で気軽にビールや酒の当てなどにする「カマスゴ」と呼ばれるカマスという魚の仔を塩茹でしたものに外観は似ている。もっとも、こちらはさっと醤油や酢醤油をかけ、好みの香辛料を添える、あっさり系だが、アングラースの方は茹でたものをオリーブオイルやニンニクと唐辛子で調理した、どちらかと言えば、こってり系となる。
余談だが、非常識なほど高価となったアングーラスは今や、誰でもが祭りの季節到来で、気軽に食べられる食品では無くなり、普通の家庭では、代用品として白身魚のすり身を加工し、シラスウナギ形状としたものを利用しており、そしてこのすり身技術は日本からの製法だという。25年前から生産開始され、今や、年間数十億円を売り上げる産業だという。
聞くところによれば、元々、鰻の蒲焼きも、江戸時代は「安い、早い、うまい」で庶民に人気があったらしく、今のように「高い、遅い、うまい(は強化されたか?)」とは、だいぶ異なっていたらしい。
ここで、筆者は、(ちょっと大袈裟かも知れぬが)ニホンウナギやヨーロッパウナギを上述のように食する習慣は、いわゆる文化として捉えるべきか?それとも、もっと広く人類全体の文明的視点からの問題として論ずるべきかを?考えてみたい。
もっとも、この「文化」、「文明」という言葉もいろいろ解釈があるようで、一概に言えぬが、これに関して分かりやすい考え方があるので、紹介したい。
それは司馬遼太郎の「アメリカ素描」 (新潮文庫) の中で、彼が述べている「文明」と「文化」についてである。すなわち、次の通りである。
『人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれも暮らしを秩序づけ、かつ安らげている。ここで、定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で言えば交通信号は文明である。