なぜ中東では争いが絶えないのか?中東に関する10の歴史的事実 (5/8ページ)

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 残念ながら、サウジは国内の緊張のほうが心配で、暴走しつつあるワッハーブ派の支援を打ち切ることができなかった。聖職者たちは、特に革命を煽るわけでもなく、サウジ王室はただ黙って毒のあるワッハーブ派に金を出し続け、その考えが大衆に浸透していくのを手をこまねいて見ているしかなかった。

 中国の拷問、水責めのように、少しずつ徐々に憎悪を煽るようなやり方がゆっくりと効力を発揮し始めた。サウジ王室は、文字通り莫大な金を費やして超過激なイスラム原理主義をレバノン、ヨルダン、シリア、バーレーンのスンニ派に押しつけた。ここにきて急に、スンニ派とシーア派は、大きな不信感をもって互いを見るようになった。



■ 4. イラン革命


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 1978年1月7日、小さな流れが大きな川に流れ込み、怒涛のようなうねりになる瞬間がやってきた。イラン革命の始まりだった。この革命で国王(パーレビ)は逃亡し、アーヤトッラー・ホメイニがその後を引き継いで、強硬路線のシーア派神権政治を樹立した。これに慌てたのがスンニ派のサウジアラビアだ。

 この革命は、サウジの存在そのものを脅かした。ホメイニは世襲制はイスラムの教えに反するとあからさまに主張して、革命後のイランがすべてのイスラム教徒を象徴すると宣言した。7世紀に端を発したスンニ派とシーア派の正統性の問題が再び浮上してきた。

 それから何十年も、サウジとイランは自分たちのルールを正当化するために、この問題をわざと持ち出してきた。サウジはワッハーブ派にさらに資金を提供して、シーア派の邪悪さをふれまわった。イランはイランで、スンニ派サウジの支配に対して蜂起するよう、シーア派を煽った。それぞれの介入が、緊張をますますヒートアップさせ、爆発寸前に追いやることになった。
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