83歳筆者が「敬老の日」に考える...若い人に知ってほしい、老いるということのリアル (2/7ページ)
そんな時、筆者だって、確実にそういう機会はジワジワと減っているにせよ、自分より年長者に対しては自然にそういう態度となるのは、むしろ当たり前になっているからだ。
だから、そんなことよりも、一体「老い」とは何か?について、書いてみた方が、まだしも何かの役に立つのでは無いか?と考えた。
「何故?」って、実は斯く申す筆者自身が、80歳を超えるまで、余り「老い」というものを身につまされて感じたことが無かったので、具体的な意味で(もしくは体感的に)「老い」というものを理解していなかった、と今更思い出すからである。
「老い」とは結局、体感してみないと分からないものだ、と改めて思う。今、筆者からすると、105歳になり、施設であの世とこの世の境界を彷徨っているように見える母が80代から90代の頃、何度か一緒に外出し、電車などを乗降するために駅を利用したときのことを思い出している。そんな時、何故?母がエスカレーターでは無く、見つけ難いエレベーターを探すのか?余りピンと来ていなかった。でも、今、自分が80歳を超える歳になってみると、自然に自分もそうしていることに気付く。
だが、勘違いしないで頂きたい。筆者がエスカレーターを利用出来ないわけでは無く、場合によれば、「停止して登る列」ではなく、「急いで小走りしながら登る優先列」の方だって、ベルトに手さえ添えていれば、今でも利用出来るし、現に利用することすら、あるのだから...。
まあ、このセンテンスから読み取れるのは、「老い」とは先ず、身体能力の低下、劣化として現れる「自然現象である」と言えよう。それも(高齢者を除く)誰でもが、全く意識せずに、通常、普通に行っていることを、意識的に、かつ努力しないと、実際にはうまく出来なくなって来る、ということなのだ。
多くの場合、最も顕著に表れる具体的な例としては、いわゆる「足腰の衰え」というやつだ。筆者のように、余り運動をしない人間には、誤魔化しようも無く、はっきりと現れて来る。大したことをしていなくても、直ぐに筋肉が痛くなり、疲労して背筋を伸ばしていられなくなる。身近な人に、幾ら注意されても、実った稲穂のように頭が重くなるのか?垂れ下がり、背筋をしゃんと伸ばしていられないようになる。