83歳筆者が「敬老の日」に考える...若い人に知ってほしい、老いるということのリアル (5/7ページ)
尤も、過去のコラムで筆者が触れた『「シンギュラリティ(特異点)」について書かれたレイ・カーツワイルの本による、2045年、人工知能を搭載したスーパーコンピューターが地球を支配する日が訪れ、コンピューターは人間の知性(生物学、生態学)を超え、世界は「シンギュラリティー」に到達する。その結果、病気や老化といった生物学的限界さえ取り払われ、もはや死さえもが「治療可能な」ものになる、という。』そんな世界が本当に来るなら、筆者がここまで述べて来たような懸念は全く見当外れな、無用の長物に成り下がるわけだが...。
そういう輝かしい?(のか、どうか知らぬが)未来となったときは別として、それまでは、ヒトは誰でも、上のような現実を回避することは出来ない。つまり、生きている限り、経時的な老化から逃れることは出来ない。それは、見方を変えれば、将に生きること、そのものなのだから...。
ここで、「老化」の現象として「歩行」の問題に絞って取り上げたが、無論、「老化現象」はこれに留まるものでは無い。当然ながら、そこには各種の変形がある。ホンの一例を挙げれば、布団からの起き上がり困難、ズボンをはいたり、靴下をはく際の(片足で安定した体勢を保つ)困難さ等々であるが、言うまでも無く、他にも変形は幾らでもある。
これらの困難は、一般的に高齢者特有の事態とも言えようが、また、それは人によって千差万別であって、そこには可成りの個人差がある。第一、この原稿の内容だって、飽くまでも『私=ぶらいおん』という特定の高齢者の極個人的な体感的実態を述べているに過ぎないのだから...。
ここまで、高齢者の身体能力の減衰ばかり述べて来たが、ご想像通り、実際は、それらのみには留まらず、精神的(あるいは頭脳的)能力も、残念ながら、経時的に減衰の途を辿ることは先ず、間違い無い。
一番、分かりやすいのは、先ず、記憶力の減退である。筆者の場合は、顕著なのが固有名詞の記憶についてである、これがなかなか出て来なくなった。しかしながら、これも細かく述べれば、様々なバラエティがある。