83歳筆者が再び考える「人工知能」...恐ろしいのは「AIの暴走」か、それとも? (7/8ページ)
結果は、接戦の末、Bが勝った、としよう。その場合の記事の書き方は二通りある、という。
その第1は、Aチームファン向けの記事で、それは「あと一歩というところで、栄光を逃がしたが、若い選手達の活躍には見るべきものがあった。次の対戦が大変楽しみだ!」というようになる。
それに対し、第2のBチームファン向けの記事を書くとすれば「実に手に汗を握る接戦であったが、結局、実力に勝るBが妥当な勝ちを収める結果となった。」というような記事となるらしい。
この場合のいずれでも、事前に用意した、いずれか寄りの情報をAIにインプットさえすれば、AIは、それに即した記事を簡単にアウトプットする、という。
この種のスポーツ記事なら、別にどうということも無いのだが、もし、これが政治や、大事な国の方針を決めるような際に、このように、つまり、言ってみれば、イージーなやり方を頻発、多用して行うと、どちらかと言えば、従順で、批判精神に乏しい大衆を、あらぬ方向へ誘導するような、恐ろしい結果にならねばよいが、と筆者は懸念している。
だからこそ、人間はその種の危険性を十分理解した上で、その点では、AIとの差別化を図らねばならない。
上述したように、(この場合)身体性という強みを有する人間が「感情」や「感性」の面では、AIに負けることは無いのだから、人間としての基本的なルールを以てAIには「けじめ」をつけることを、今の内からはっきり教え込んで置かねばならない。
一方で、人間の「身体性」を伴うという弱点が、然程遠くない将来に、AIやアンドロイド・ロボット技術によって、無理なく克服される、とすれば、それはそれでテクノロジーの成果としては、素晴らしいことだ、とも筆者は考えている。
しかし、この点について、イーロン・マスク氏は、こんな言い方をしている。
「AIに勝てないなら、自分がAIになっちゃえばいいじゃない。」それは、こういうことを意味する。