【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話 (3/17ページ)
「ん?」
「あの鯨、まだ生きてるぜ」
「ん、そうかえ」
「目を凝らすと、時々、ヒレがね、微かに動くんです」
「ほんにか」
「ホラ!見てくだせえ」
「ん?・・・・・・」
国芳が指を指しても、豊国には良く分からない。
(こいつ、観察眼がずば抜けていやがる)
豊国がこっそり感心している傍らで、
「助けなきゃ」、
「あ?」
「助けなきゃ、死んじまわア」。
身軽な国芳はもう尻からげして、ひょいひょいと見物人の股の間を潜り抜け、あっという間に見えなくなった。
「あ!オイ!ちょいと待ちねえ!」
豊国は慌てて、人ごみを掻き分けた。
「どいたどいた!こいつアまだ、生きてやすぜ!」
お、何やら騒々しいガキが出てきたぞ、と見物人たちはざわめいた。
「ちょいと皆さん!見てねえで、手伝ってくだせえ!」
国芳は一人で鯨の頭に両手を当てて、力を込めながら叫んだ。鯨から生々しい臭いが漂う。傍に居た漁師の男が、
「おい、小僧。こんなところに流れてくるのは珍しいんだから、活きのいいうちに掻っ捌いて、食っちまえばいいじゃアねえか」
と言うと、国芳はかぶりを振った。
「いや、駄目でさア。おいらア、こいつがこの江戸前で元気に飛沫上げて泳ぐ姿を描きてえんだ」
「何?おめえ、絵描きか?」
「まあ、将来的には」
国芳はうーん、うーんと唸りながら鯨の頭を押す。冷たい皮膚表面は張りがありつるりとしていて、何より一人で押して動かせるような代物では、到底ない。
「こいつ、本気かよ」
「本物の馬鹿っているんだな」
「ったく、仕方ねえなア」
国芳の周囲は呆れたように言いながらも、江戸ッコはこういう馬鹿らしい事が大好物なのである。わらわらと任侠風の男共が鯨の頭の周りに集まり始め、やがて男も女もしまいには子どもまで手伝って、打ち上がった鯨を海に帰そうと国芳と一緒に大鯨の巨躯を押し始めた。