【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話 (2/17ページ)

Japaaan

吸い込まれそうな縹色の海は、まるで水面に金銀の錦糸で緻密な刺繍を施したかのように絢爛豪華にきらきらと輝いた。振り返ると彼方に御殿山の桜が、枝の先を既にほの紅く染め始めているのが見えた。

一歩前をのしのしとゆく豊国が、周囲を見回しながら国芳に問いかけた。

「どうだ、芳。それらしい人集りが見えるか?」

「父っつぁん。あすこじゃアねえかえ」

国芳は遠方の浜の人集りを指した。

鯨のようなものはまだ見えない。

「よし、寄ってみるぞ」

「あいよ!」

二人が駆け付けると、はたしてそうであった。

「ウワア、でっけえなあ!」

喧々たる人集りの奥に、八、九間はあろうかという大鯨が黒々とした巨像を横たえている。

「ハア、これアすごいねえ」

国芳はしきりに感嘆を漏らした。鯨というものは、図鑑で見たことがある。今目の前に横たわっているのは背美鯨(せみくじら)という種類である。背美鯨は他の種と比べて下顎がやたらと大きく、口がしの字を横に倒したような不思議な形に湾曲している。体型は寸胴ではあるが小山のように盛り上がった背中の曲線が非常に美しいという意味で、その綺麗な名がついた。雌の体長は十間以上になり、雄はそれより一間ほど小さいというから、この個体は恐らく雄だろうと国芳は思った。紙の上でしか知らなかったものを初めて目にした感動は、呼吸が止まるほどであった。国芳は興奮のあまり、まだ全体が見える前から矢立を取り出して帳面にスラスラ描き始めた。人が余りに多いために、まだ背が低い国芳はぴょんぴょん跳ねながら観察しなくてはならなかった。背美鯨に似て顎の大きな豊国が呆れて、

「おめえ、ちょいと落ち着け。もちっと近寄らなきゃ・・・・・・」

「なあ、父っつぁん」

師の説教くさい言葉に被せるように、国芳は豊国の肘を指で突ついた。

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