高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字 (3/8ページ)

心に残る家族葬

そこから2行だけを取り出してしまうのは、史太郎でなくとも、不恰好で収まりがつかないものに思えてしまう。それは、7字+5字で1行をなす、七五調の言葉が4行連なることで、詩世界が構成されているからだ。後半2行には、赤紙1枚で遠い異国の戦場に投げ込まれた兵隊たちが、遠く故郷に続く道に郷愁を馳せる思いが描き出されており、そこにこそ詩情や、火野の作詩の意図がある。この詩を碑文に刻むなら、この四行詩全部を刻まなければならないのではないか!しかし史太郎は、劉に激しく抗弁することができないまま、その思いを心に飲み込んでしまった…

■完成した高塔山の火野葦平文学碑

「戦後のすさんだ世の中を、河童の持つ、洒脱ですっとぼけ、変幻自在のようで間が抜け、笑いを振りまく性(さが)と徳を広めることを通して、明るく照らそう」という火野の思いから、高塔山の頂上で、河童とかねて親交があるという火野の「仲介」の下で河童族のお出ましを願うという、河童をこよなく愛した火野らしい「河童祭り」が行われるようになり、それが地域の人々を大いに楽しませていた。そのことから文学碑の除幕式は、お祭りの日である8月1日に行いたいと、若松市側から依頼があった。そうなると、時間があまりない。碑を設計することになった谷口は、大急ぎで建設に取り掛かることになった。

設置場所が高塔山の中腹に決まってから、谷口は、石をもって火野の「肖像画」を描こうとした。つまり、火野の作品に見る大らかさや、こまやかな詩情を念頭に置き、石碑にそれを表現しようとしたのだ。大きさは横2メートル、高さ1メートル、厚さ75センチの大型の黒御影(みかげ)ながら、黒い石のところどころに白い筋目が散っているのが特徴的な、福島県産の浮金石(うきがねいし)を用いた。そして碑の黒さを際立たせるために、台石はスウェーデン産の赤御影。更にその下には、岡山県・北木(きたぎ)産の白御影を短冊形に切って敷き並べ、安定感を。そして地面には、幅9メートル、奥行き6メートルの範囲に、愛媛の伊予(いよ)石の砂利を敷き詰めて、清浄感を演出したという。

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