高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字 (4/8ページ)

心に残る家族葬



また碑の地下には、『火野葦平選集』(東京創元社、1958〜59年)全8巻、遺作の『革命前後』(1960年)の原稿用紙、生前用いていた万年筆、付けペン、ペン軸、へその緒を封じ込んだ銅製の容器が埋められた。

■高塔山の火野葦平文学碑の除幕式では

文学碑の除幕式には火野ゆかりの人々のみならず、火野の作品や人柄を愛した多くの人々が詰めかけた。その挨拶の折に、建設期成会の名誉会長を務めた丹羽文雄が、「この碑文の詩は、『泥によごれし背嚢に/さす一輪の菊の香や/異国の道を行く兵の/眼にしむ空の青の色』と4行のもので、この4行があったら葦平も喜んだだろう」と、ある意味「爆弾発言」をしたのである。

一方、この言葉を強く推した劉は、自身の死の前年である1985(昭和60)年に、「戦場というあらあらしい情況の中に一輪の野の花を愛したこの短詩の風韻こそは、火野葦平の文学精神をあますところなく伝えていると思われ、私の所蔵する色紙の中からこの詩を選んだ野田宇太郎(うたろう。詩人。1909〜1984)君の詩眼に敬意を表するしだいである」と書き記している。劉は、「葦平といえば『糞尿譚』(1938年)だし、『花と龍』(1953年)もあれば『幻燈部屋』(1942年)もある。しかし現在では、なんといっても『麦と兵隊』である」とし、「たしかに『麦と兵隊』は戦記文学である…(略)…かれはこの作品の中で、戦争の惨酷を訴えこそすれ、無慚、惨忍を賛美したり賞讃したりなどは、いっさいしていない」、「日本兵とゴチャゴチャになって進んでゆく中国兵の中に、友人の画家に似た顔を発見して懐しがったり、中国兵の斬首の光景に眼をそむけたりする柔軟な知性をひらめかせている」ような、「奇妙な戦記」であると、その文学的価値を讃えた。そしてそれをふまえて碑に「泥によごれし背嚢に/さす一輪の菊の香や」だけを刻んでいるのだと、自身または野田の「取捨選択」を正しいものとし、「戦場にあって梅の花や菊の香に心を傾ける詩情を尊い」ものとし、「鎧のエビラ(箙。弓矢を入れて背負う武具)に梅の小枝を挿して戦場に向った若武者の詩情を解しない者が、この小詩を紹介するときに、『異国の道を行く兵の/眼にしむ空の青の色』とつづけて、物知り顔をしたがるのは困ったことだ。
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