高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字 (7/8ページ)

心に残る家族葬

そこで大神は、神社の境内に1968(昭和43)年5月、火野の遺筆による、

  「杭州西湖の思ひ出に

  西湖の水の青くして

  紅木蓮の花咲けば

  たづぬる春の身に近く

  兵隊なれば楽しかる  葦平」

と、表面に『花と兵隊』(1939年)にちなんだ、中国・西湖(せいこ)の思い出をうたった詩が刻まれた「小倉歩兵第百十四聯隊第七中連隊慰霊碑」を建立していたことから、柿添に文学碑建立の一切を譲った。その結果、慰霊碑の隣に、早稲田大学校友会福岡県支部によって、火野の死の二十三回忌と早稲田大学創立百周年を記念した形で、火野の遺志を反映した文学碑が建立された。高塔山の石碑同様、黒御影石で、1.85メートルの高さのものだ。

■どちらの文学碑に刻まれた言葉が良いのだろうか…

偶然にも火野は、自身の高塔山の文学碑同様、谷口の手によって1947(昭和22)年、石川県金沢市の卯辰山(うたつやま)自然公園内に建立された、作家・徳田秋聲(しゅうせい、1871〜1943)の文学碑について記していた。「心のこもった美しい碑である」として、「あまりの床(ゆか)しさに、しばらくその前を立ち去りかねた」「すこし凝りすぎていると思はれるほど神經が使はれて居り、私は文學碑の日本一ではないかと思つた」と谷口の偉業を讃えていたのだ。

そのような火野の魂は果たして、自身の2基の文学碑をどう受け止めているのか。命日の1月24日直前の日曜日に毎年、火野を愛する地域の人々によって「葦平忌」が営まれる、高塔山のものがいいのか。それとも、自身が希望した言葉が刻まれた甲州八幡宮のものがいいのか…。

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