高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字 (2/8ページ)

心に残る家族葬



  「足は地に

  心には歌と翼と

  ペンには色と肉を」

  「強きもの

  美しきもの

  悲しきもの」

文学碑建設は、着々と具体的なものになっていった。設計は谷口吉郎(たにぐちよしろう、1904〜1979)。建設期成会の名誉会長は、早稲田第一高等学院時代から火野と知己があった、作家の丹羽文雄(にわふみお、1904〜2005)。会長は、火野と小学校の同級生であった岡部宏輔(1906〜1996)が務めることになった。更に、当時の若松市長・吉田敬太郎(1898〜1988)が中心となって、市民からの浄財を求める募金活動も始まった。

■ところが火野葦平の盟友である劉寒吉が突然あらわれて…

そんな折、火野の三男で、現在は河伯洞の管理人をしている玉井史太郎(ふみたろう、1937〜)の元を、火野の盟友かつ、九州文学界の重鎮であり、地域の文化活動に多大な貢献をなした作家・劉寒吉(りゅうかんきち。本名・浜田隆一。1906〜1986)が訪れた。劉が携えていた1枚の色紙には、以下の通り、火野の筆跡で一篇の四行詩が記されていた。

  「泥によごれし背嚢(はいのう)に

  さす一輪の菊の香や

  異国の道を行く兵の

  眼にしむ空の青の色   葦平」

しかし史太郎は、その詩の存在を知らなかった。劉が言うには、この詩の前半2行を碑文とすることを、期成会で決定した。しかし署名が「葦平」だけなので、この書体と同じような「火野葦平」の署名を探して欲しいという。史太郎は一方的な申し出に対し、「それはおかしいのではないですか」と、かねて用意していた2篇の詩を劉に示した。しかし劉は、「もうこれに決まったから、署名を探しておいてくれ」と言い残して帰って行った。

史太郎を含む火野の遺族たちは、戦中戦後を通して、「兵隊作家」「戦争作家」などのレッテルに火野が苦しみ抜き、歯を食いしばるように生きてきたというのに、死後もなお、その屍を鞭打つような碑文の選定を、一体誰がなしたのか、と泣きたい思いだった。

しかも四行詩は4行で完結する。
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