高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字 (1/8ページ)

心に残る家族葬

高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字

大阪市北区・堂島(どうじま)川沿いには、1990(平成2)年、大阪市で開催された「花博(はなはく)」こと、国際花と緑の博覧会に合わせて、日本証券業協会大阪地区協会によって「堂島米市場跡記念碑」が建てられていた。それは、江戸時代の1730(享保15)年、西欧諸国よりもはるかに早く、ここで先物取引が行なわれていたことを後世に伝えるためのものだった。しかしこの碑には、本来、先物取引を表す「帳合(ちょうあい)米」と刻むべきところを、「張合米」と間違えられたまま、30年近く放置されていた。

■火野葦平の死後、高塔山に文学碑が建てられた

しかし昨年10月24日、日本国内の株価指数先物市場が創設30周年を迎えたことを記念して、建築家・安藤忠雄のデザイン協力により、重さ約9.5トン、長さは最大で約3メートル、直径は約1.5メートルの米粒を模した御影石製の新オブジェ「一粒の光」が、大阪堂島商品取引所によって建てられた。それに伴い、間違った語句が刻まれていた記念碑は、撤去された。

戦中戦後の日本を代表する作家・火野葦平(ひのあしへい。本名・玉井勝則。1906(戸籍上は1907)〜1960)の「火野葦平文学碑」にも、大阪・堂島の記念碑同様、「もどかしい」「悔しい」問題が存在している。

ちなみに「火野葦平文学碑」とは、1960(昭和35)年8月1日に、火野の若松の自宅「河伯洞(かはくどう)」からほど近い、高さ124メートルの高塔山(たかとうやま)の山腹に建てられたものである。文学碑建設そのものは、火野の本通夜が行われた1月25日には既に、話が出ていたという。それから、あれよあれよのうちに決定され、程なくして「火野葦平文学碑建設期成会」が組織された。

■文学碑に刻む文字について火野葦平も遺族もある言葉を望んでいた

碑に刻む言葉として、遺族側は、生前の火野が好んで書いており、死の直前に限定出版された『火野葦平詩集』(1959年)の冒頭にも掲げられていた以下の二つのどちらかで検討されていた。

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