高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字 (5/8ページ)

心に残る家族葬

あの詩は小さく二行で切れているからいいのである」(全て原文ママ)と断じていた。

■それでもやっぱり高塔山の文学碑に刻まれた文字に納得がいかなかった


劉や野田の「判断」が正しいのか。それとも史太郎や丹羽の考え方が正しいのか…完成した文学碑に対して史太郎は、「葦平を兵隊作家にとどめゐる文学碑文目をそむけたり」と詠み、「私の悔いは、この碑がある限り消えそうにない」と述べていた。

生前の火野の若松での秘書で詩人だった小田雅彦(1918〜1990)は、史太郎同様の思いを抱いていた。自殺が明かされる4年前、小田は火野の東京の秘書で作家の小堺昭三(1928〜1995)に会った際、「火野先生の亡霊が毎晩、おれの枕元に出てきて、はよォ自殺だったことを公表しろ、出ないとわしは成仏できん……こう言っとる(言っている)んだよ。おれはつらいよ、苦しいよ」と訴えていたほどだった。その執念ゆえに小田は、「足は地に/心には歌と翼と/ペンには色と肉を」の言葉が書かれた文学碑建設を実現させたのだ。しかもそれは火野が生まれ、そして自らの命を絶った若松の地ではなく、戦後における火野の代表作である『花と龍』の舞台であり、火野自身が戦場の中国大陸に旅立った「場所」でもあった、北九州市門司(もじ)区にある、甲宗(こうそう)八幡宮の境内だった。

■そしてその思いを行動に移した


甲宗八幡宮の宮司・大神文和(1912〜2004)が火野と戦友だった縁を頼った小田は、1982(昭和57)年、大神の元を訪れ、「今年は葦平の二十三回忌で、先生の遺言の碑を建てたいと念願し、永年努力してきたが、未だに果たせない。私も歳をとり、このあたりで区切りをつけたい」と、援助を願った。そこで大神は近在の石材店と相談し、石碑の設計を始めていた。

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