最後の浮世絵師”血みまれ月岡芳年”は大奥と歌舞伎界の大事件「絵島生島事件」をこう斬った! (6/9ページ)
右端の提灯に生島新五郎の定紋、そして左端の提灯には市川團十郎の定紋も。。。
生島新五郎と二代目市川團十郎ここで言う市川團十郎とは“二代目 市川團十郎”のことです。実はこの二代目市川團十郎、生島新五郎に大変な恩を受けています。
事件当時、生島新五郎は山村座の看板役者で大変な二枚目でした。生島新五郎は濡れ・やつし(つまり恋愛話に出てくる上品な美男子で、元は高貴の出だったが今は訳あり落ちぶれた姿をしている)の名手と賞賛され、“女性たちが好きになるのも無理はない”と評されるほどの当代一の人気役者でした。
その生島新五郎の弟子が初代市川團十郎に恨みを持ち、舞台上で初代市川團十郎を刺殺したのです。そのため二代目市川團十郎は16歳で二代目を襲名することになります。
生島新五郎は、まだ役者としては未熟な二代目市川團十郎の後見人となり、10年近く演技の指導をしていたのです。そこで二代目市川團十郎は、初代市川團十郎の荒事芸だけではなく、生島新五郎の和事芸をも加味した芸風を身につけ、正徳3年(1713年)初めて『助六』を演じ、それが江戸の気風と相まって大人気を博すことになりました。
二代目市川團十郎と絵島この二代目市川團十郎は絵島にも繋がりがあります。絵島は以前から團十郎を贔屓にしており、團十郎の身の回りのものは全て絵島が贈っていたという説があるのです。その中に「杏葉牡丹」の紋の入った小袖があったのです。