源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【五】 (4/8ページ)
「大庭殿はかの鎌倉権五郎景正(かまくら ごんごろうかげまさ)が末葉=子孫なれば、その主君である八幡太郎源義家(はちまんたろう みなもとの よしいえ)が末葉なる佐殿に従うのが道理であろう!」
※その時(鎌倉権五郎景正)のエピソードはこちら。
たとえ右目に矢が刺さろうとも――武士が生命より大切なもの、鎌倉権五郎景正の武勇伝そうだそうだ……頼朝の軍勢は俄かに活気づいたものの、景親も負けてはいません。
「百年近くも昔のこと(後三年の役。永保三1083年~寛治元1087年)を、いつまでも未練がましい!とっくに時代は変わっておるんじゃ、相国入道(=平清盛)様より受けた御恩は、山より高く、海より深いんじゃ!」
そうだそうだ……時代遅れのロートルはすっこンでろ……形勢はあっという間に逆転されてしまいました。
「あぁ、父上……」
「それにしても、三浦の軍勢はまだかのぅ……」
願いも虚しく、頼みの綱である三浦一族は、丸子川(酒匂川)の増水で足止めを喰らって間に合わず、およそ11倍の兵力差を前にした頼朝の軍勢は、奮闘むなしく散々に打ち負かされてしまいました。
「いかん、退け!退けぇ……っ!」
義時は頼朝を護衛しながら退却、この辺りに土地勘がある土肥次郎実平の案内で、鵐窟(しとどのいわや。現:神奈川県湯河原町)へ逃げ込みます。