源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【五】 (6/8ページ)

Japaaan

源家再興の好機を喜んだ信義は、快く頼朝への援軍として兵を挙げました。

「よぅし、ちょうど駿河(現:静岡県東部)の目代・橘遠茂(たちばな とおしげ)らが源氏討伐などと吐(ぬ)かしてこちらへ向かっておるから、返り討って佐殿への手土産と致そうぞ!」

「「「おおぅ……っ!」」」

石橋山から逃げ集って来た者たちも加勢して捲土重来(けんどちょうらい。リベンジ)の闘志に燃える信義の軍勢は、橘遠茂を捕らえ、その子息二名や長田入道(おさだにゅうどう)らを討ち取る武勲を立てます。

「小四郎、後れをとるな!」

「おぅ父上、行かいでか!」

時政と義時もここぞとばかりに大暴れ、後世にいう「鉢田山の合戦(治承四1180年10月14日)」で勝利した信義の軍勢は、京都から攻めて来る平維盛(たいらの これもり。清盛の嫡孫)の大軍を迎え撃つべく、鎌倉から進軍してきた頼朝と合流して黄瀬川(きせがわ)に布陣しました。

ちなみに頼朝は石橋山の敗戦後、包囲網を脱出して真鶴岬(現:神奈川県真鶴町)から出航。相模湾を渡って安房国(現:千葉県最南部)へと上陸し、とりあえず身の安全を確保します。

※これは景親がわざと見逃した(泳がせた)という説もあるようです。

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