大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックス!承久の乱はなぜ起きたのか? (7/8ページ)
ところで今、悪しき者どもにたぶらかされた上皇陛下が我らを滅ぼせと命じられましたが、心ある者は早く首謀者である藤原秀康(ふじわらの ひでやす)、三浦胤義(みうらの たねよし)らを討ち取り、源家将軍三代の眠るこの鎌倉を守るのです。
それでも上皇陛下にお味方すると言うのなら、今すぐこの場で申し出なさい……!
かつて公家(貴族)たちから地下人(じげにん)と蔑まれ、犬馬のごとく酷使されてきた武士たちは、頼朝公の挙兵から鎌倉に幕府が開かれ、堂々と生きられるようになった今日までを思い出し、涙せぬ者はなかったと言います。
「尼御台様!我ら、鎌倉殿にお味方申す!」
「そうとも、君側の奸(くんそくのかん。君主の傍にいる悪者)を討たいでか!」
「「「討つべし!討つべし……っ!」」」
日本国(全国の軍勢)をもって、関八州(関東八ヶ国)に対すべし……後世そう恐れられた坂東武者らは政子の言葉に奮い立ち、頼朝公が開かれた「武士の都」を守るべく決戦に臨んだのでした。
エピローグ「いざ進め!いまだ兵は集まらずとも、雲は龍に従うものぞ!」
ひとたび戦うと決めた以上、箱根(現:神奈川県箱根町)の天嶮で官軍を待ち受けるより、胸を張って堂々と、京都を目指して進軍させます。
「後は、果報を待つのみ……」
果たして勝利を納めた義時は、それまでの緊張がほぐれてドッと疲れが出たせいか、元仁元年(1224年)6月13日、62歳の生涯に幕を下ろしたのでした。
※政子も嘉禄元年(1225年)7月11日に69歳で世を去っています。
「……我が成しうることはすべて成した……あぁ、強敵(とも)たちよ……そなたらと戦いながら築き上げた『武士の世』が、いよいよの完成じゃ……そなたらの犠牲も、これで少しは報われようぞ……」
かつて鎌倉に幕府を開いたものの、その心はどこか生まれ故郷の京都に向かい、朝廷との融合を望んでいた頼朝公以下三代の源氏将軍。