遷都、遷都、引越しばかり…古代日本の「都づくり」がなかなか落ち着かなかった問題 (2/7ページ)
難波宮ができても、新しい国づくりは難航します。653年に、皇太子である中大兄皇子が孝徳天皇に対して「倭京」に移るように求めます(この「倭京」がどこなのかは諸説あります)。
孝徳天皇はこれを拒絶。すると皇太子は血縁者と天皇の臣下たちを連れて去ってしまいます。天皇はこれがショックで崩御しました。
孝徳天皇と中大兄皇子が仲違いした理由には諸説あり、権力闘争だったとも外交政策に関する対立だったとも言われています。この前後の経緯ははっきりせず、難波宮に孝徳天皇を置き去りにした中大兄皇子たちは、けっきょく飛鳥へ戻ったようです。
この後、655年に中大兄皇子の母親が即位して斉明天皇になりました。
その後の667年、今度は中大兄皇子が飛鳥から近江(滋賀県大津市)へ都を移します。
この遷都の理由は国際情勢にあったとされています。
白村江の戦い、壬申の乱…そしてまた遷都7世紀初頭は、何よりも朝鮮半島が激動していました。高句麗、新羅、百済の三つの国に分かれて、このうちの新羅が力をつけて百済を攻めます。新羅は、唐の協力を得て朝鮮半島を統一しようとしていました。
ここで日本は、百済に軍を派遣します。ところが有名な「白村江(はくすきのえ)の戦い」で大敗を喫し百済は滅亡。日本軍は、百済の難民とともに帰国しました。
しかし、敗れて撤退してそのままというわけにはいきません。今度は日本本土で、新羅と唐の連合軍の侵攻にそなえる必要があります。
そのための方策の一つとして、「遷都」が行われたのでした。