それ、火を消すより大事なの?平安京の火災と貴族たちの反応にびっくり (1/6ページ)
火事と喧嘩は江戸の華……なんて言いますが、かつては平安京も多く火災に見舞われました。
「貴族たちが住む寝殿造は築地塀(ついじべい)に囲まれ、庭に池もある(防火用水を確保している)から火災に強かった」
なんて言っているのを聞いたことがあるものの、とんでもありません。
寝殿造は京都盆地の暑さと湿気をしのぐため、風通しをよくしようと床下が高く、しかも天井も高く作られていました。通気性の高さは炎の燃焼速度を高めます。
また屋根材は難燃性の瓦が普及しておらず、燃えやすい檜皮葺(ひわだぶき)が主流でしたから、よそから火の粉が飛んで来れば容易に延焼しました。
天井が高いため初期消火が(特に女性や高齢者には)難しく、またどこのご家庭にも池≒潤沢な防火用水があった訳でもありません。
こうした事情で、京都洛中では江戸に負けず劣らず大規模火災が発生しました。今回はそんな中から、いくつかのエピソードを紹介したいと思います。
相次ぐ火事場泥棒時は長和3年(1014年)2月9日、登華殿(とうかでん。女御らの住居)からの出火が原因で内裏が焼亡してしまいました。