これは蒲殿ロス不可避…源範頼が失脚に追い込まれた失言とは?【鎌倉殿の13人】 (2/7ページ)
『保暦間記』に記された範頼発言
しかし、範頼失脚の原因となったこの発言について、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には言及がありません。
発言の出典は南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』。保元の乱(保元元・1156年)から暦応2年(1339年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が崩御されるまでの間を記録しているため、そのように呼ばれています。
鎌倉を守ろうとした発言が裏目に出てしまった源範頼。歌川芳艶筆
では、問題とされた範頼発言を見てみましょう。
……同八月三河守範頼被誅其故ハ去富士ノ狩場ニテ大将殿ノ討レサセ給ヒテ候と云事鎌倉ハ聞ヘタリケルニ二位殿大ニ騒テ歎カセ給ケル三州鎌倉に留守也ケルカ範頼左テ候ヘハ御代ハ何事カ候ヘキトナクサメ申タリケルヲサテハ丗二心ヲ懸タルカトテ疑ヲナシテノ事ナリキ不便ナリシ事共ナリ頼朝ノ無道寔ニ了簡ノ及所ニ非ス……
※『保暦間記』範頼被討より
【意訳】……同じ年(建久4・1193年)の8月、三河守(三州)範頼が誅せられた。
以前、富士の巻狩りにおいて頼朝討死の誤報が入った時、嘆き悲しむ二位殿(政子)を励まそうと
「鎌倉を守っているのはこの範頼ですから、御台所が何をご心配になることがあるでしょうか」(鎌倉に留守也ケルカ範頼左テ候ヘハ御代ハ何事カ候ヘキ)
と発言。