これは蒲殿ロス不可避…源範頼が失脚に追い込まれた失言とは?【鎌倉殿の13人】 (3/7ページ)
(夫が殺されて安心も何もありませんが、範頼なりの誠意だったのでしょう)
無事に生還した頼朝はそれを知って「さては丗(さんじゅう≒三州)のヤツ、二心をかけてやがるな……」と疑心暗鬼に。
それで殺されてしまったとのことで、実に不便(ふびん。不憫)でならない。頼朝の無道ぶりは寔(まこと)に了見の及ぶところではない(まったく理解できない)。
……とのこと。ちなみにこれに類いする発言は、他の史料には登場しません。
起請文を献上するも……では『吾妻鏡』の範頼は、謀叛の疑いに対してどのように対応したのでしょうか。建久4年(1193年)8月2日、範頼は頼朝に起請文を献上します。
敬みて立て申す
起請文の事。
右御代官として、たびたび戦場に向ひをはんぬ。朝敵を平らげ、愚忠を盡してより以降、全く貮なし。御子孫の将来たりといへども、またもつて貞節を存ずべきものなり。かつはまた御疑ひなく御意に叶ふの條、具に先々の厳礼に見えたり。秘して箱底に蓄ふ。しかるに今さら誤たずして、この御疑ひに与ること、不便の次第なり。所詮当時といひ後代といひ、不忠を挿むべからず。早くこの趣をもつて、子孫に誡め置くべきものなり。万が一にもこの文に違犯せしめば、上は梵天帝釈、下界は伊勢・春日・加茂・別して氏神正八幡大菩薩等の神罰を源範頼が身に祟るべきなり。よつて謹慎してもつて起請文件のごとし。
建久四年八月 日 参河守源範頼※『吾妻鏡』建久4年(1193年)8月2日条
【意訳】つつしんで誓いを立て、この起請文に記します。
私はこれまで鎌倉殿の代官として度々戦場に向かって朝敵を滅ぼし、愚直に忠義を尽くしてきました。まったく貮(ふたごころ)などありません。鎌倉殿のご子孫に対しても変わらず忠義を尽くして参ります。このたび謀叛の疑いをかけられてしまったことはとても残念です。今までがそうだったように、これからも魔が差すことなどございません。この真心を我が子孫に厳しく申しつけておきます。