品川区の善福寺に残る鏝絵で有名な伊豆の長八の非・老害エピソード (6/8ページ)

心に残る家族葬

当時親子ほど年が離れていたという長八が吉に対して、「生意気なことを言うな!」などと一喝し、追い払ってしまっていたとしたら、その場はスッキリしたかもしれない。しかし吉のような「江戸っ子」で魚の目利きが利くはずの、依頼主である魚河岸の問屋の主人や、芸術が「わかる」、いわゆる「通(つう)な人」が、「鼻曲がりのタイ」のままの『魚づくし』の鏝絵を見てしまったら、吉同様、「タイが、これじゃ、なってねえ!」と厳しく指摘することは目に見えている。そうなると、それまでの長八の作品に対する賞賛や信頼は消え失せ、今後の活動にも響いてくる。下手をすると、「あいつには一切、任せらんねえ!」となることも考えられる。そうなると、長八は「あのとき」、即座に言い返し、追い返してしまった吉のことを思い出し、「もしかしたら、あいつのせいで!」などと勝手に被害妄想を募らせ、怒り・恨み・憎しみが固着し、いつまでも消えない怨念となってくすぶり続ける。まさに悪循環だ。到底、素晴らしい作品が生み出せるはずもない。怒りを抑え、タイを買いに遣り、江戸・品川・伊豆のタイの違いを聞いて、自らの「田舎者」ゆえの「無知」をひがまず、素直に認め、納得する。そしてそのお礼に、手間をかけた吉へ朝食をふるまうなど、植木が述べた先の実験の被験者たちのように、即座に怒りを返さなかった「ストレスフリー」の人たち同様の振る舞いをしている。だからこそ長八は死ぬまで、江戸と伊豆を行き来し、多数の素晴らしい作品を生み出すことができた。

明治10(1877)年には、著名な仏師・高村東雲(1826〜1879)、陶工・今戸弁司(1828〜1899)、人形師・松本喜三郎(1825〜1891)らとともに、第1回内国勧業博覧会に作品を出品した。そこで当時の内務卿(今日で言う首相)だった大久保利通(1830〜1878)から褒賞を受けた。しかも長八は多くの高弟を持ち、特に孫弟子の森田鶴堂(1857~1934)は、静岡県静岡市の安立寺(あんりゅうじ)に残る、長八と勝るとも劣らない鏝絵の名品を残すことができたのだ。

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