埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた (1/8ページ)

心に残る家族葬

埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた

西武池袋線・飯能(はんのう)駅から15分ほど歩いたところに、川遊びやバーベキューで多くの人が賑わう「飯能河原」と呼ばれる、入間川(いるまがわ)沿いの景勝地がある。今年の4月21日から5月8日には、一部の利用者によるゴミ放置や騒音問題などを改善するため、河原の一部区域を事前予約制で有料化するという実証実験が行われた。その際、有料エリア利用者に対して、Webで利用後のアンケート調査を行ったところ、6割以上が「非常に満足」または「満足」だったという。その飯能河原の片隅に、川の流れと、そこで遊ぶ人々を見守るかのように、小さなお堂に祀られた水天宮(すいてんぐう)がある。

■水天宮の総本宮は福岡県久留米市の水天宮

「水天宮」といえば、東京・日本橋蛎殻町(かきがらちょう)の水天宮が思い浮かぶ。安産にご利益があるとして、とても有名だ。しかし水天宮は「江戸っ子」独自の信仰の場ではなく、福岡県久留米市の大河・筑後川(ちくごがわ)東岸に鎮座する水天宮が全国総本宮なのだ。

1185(寿永4)年、源平合戦のクライマックスである壇ノ浦の合戦で平家方が敗れたのち、安徳天皇(1178〜1185)の母・高倉平中宮(たかくらたいらのちゅうぐう)こと、後の建礼門院(けんれいもんいん、1155〜1214)と、その母・平時子(たいらのときこ)こと、後の二位の尼(にいのあま、1126〜1185)に仕えていた按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ、生没年不明)が、筑後川のほとりの鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れてきて、1190(建久元)年頃、戦で亡くなった人々を供養するために「水天宮」を祀ったのが始まりとされる。その後伊勢は尼となり、千代と名前を改め、近在の村人たちに請われるまま、加持祈祷などを行なっていた。「霊験あらたか」と評判になった千代は「尼御前」と称えられ、神社名も「尼御前社」「尼御前大明神」「尼御前宮」などとも呼ばれていたという。時を経て、戦乱を逃れるため、神社はあちこちに遷座したが、1650(慶安3)年、久留米藩第2代藩主・有馬忠頼(ただより、1603〜1655)に社地と社殿が寄進され、今日に至っている。

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