埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた (3/8ページ)
■飯能の水天宮

ところで、今回取り上げる飯能の水天宮だが、東京・日本橋の水天宮を勧請したものだという。社前の鳥居には「昭和9(1934)年戌年戌日建立」と彫られているが、郷土史家の新井保氏が所有していた「大正4年(1915)頃の飯能町市街地略図」に、この水天宮の記載があることから、勧請の時期は恐らく、有馬頼徳が芝の上屋敷(藩主とその家族が住まう)に水天宮を勧請した1818年以降、そして一般の人々に「なさけありまの水天宮」としゃれ言葉が広まるほど、崇敬の対象となった後だと考えられる。ちなみに、江戸における水天宮信仰は当初、「安産」というよりも、有馬家の下屋敷(別邸)があった高輪に近い品川沖の、有馬家に雇われていた荷役人夫(にやくにんぷ)や船頭たちの間に「水難除け」にご利益があるとして始められ、それから、一般の町人たちの間に広まっていったものだったという。
その当時の飯能一帯だが、もともと水田よりも畑が多かったため、米ではなく貨幣で年貢を納める必要があったことから、地元の産物を換金するための市が古くから立てられていた。また、正徳・享保期(1711~1736年)にはすでに、材木を切り出して入間川をいかだ流しで江戸まで運ぶ材木商人も活躍していた。その中でも名主の町田家は、江戸後期(1750~1850年)に、江戸に出て材木問屋を開くほどの勢いだったという。そしてその時期と前後する形で、入間川上中流域の谷口にある飯能に縄や筵(むしろ)を扱う市が立ち、更に山の産物である炭や石灰が集まったり、生糸や織物の市場としても栄えたりもしていた。こうした産物は地元の商人を通して、江戸を中心とした各地へと送られていったという。そうした興隆を極めた飯能という「場所」だったからこそ、当初は水運で産物を扱う人々の安全を守る。そして洪水や川の氾濫を鎮めていただくために、江戸で「話題」の「水天宮」が、「ここ」に勧請されたのだろう。