埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた (6/8ページ)
しかし例えば、敗走中に広島藩の藩兵に見つかったことから、わずか22歳で自害してしまった悲劇の人、尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子だった渋沢平九郎(へいくろう、1847〜1868)の他、振武軍の3人、官軍側か振武軍側かはっきりしない武士と思しき人物1人、地元の民間人は5人だったというものや、官軍側に170人もの怪我人・即死者があったという話も地域に伝わっていることから、振武軍、官軍側、共に犠牲者数はもっと多かったと考えられる。
■飯能戦争時、水天宮があったかどうかは不明
飯能戦争勃発当時、水天宮が既に飯能河原に祀られていたかは不明だが、水天宮と深い関わりがある久留米藩の藩兵は、戊辰戦争には有馬蔵人(一純、1789~1834)を総督とし、総勢353名が出兵したうち、飯能には村上四郎右衛門が率いる「日新隊」が佐賀藩とともに、現在の飯能市双柳(なみやなぎ)、飯能河原から見ると東側から入った。そこで秀常寺(しゅうじょうじ)に駐屯していた振武軍と打ち合いになったとき、振武軍は筑後藩兵に蹴散らされ、西側の能仁寺に逃げ帰ったという。さらに、福岡藩と共に、久留米藩の別動隊は飯能河原から見て北側にある智観寺に午前5時~8時頃に攻め入り、大砲2発を撃ち込んだ。寺内に振武軍兵を見つけ出すことができなかったため、福岡藩・筑後藩兵は後から反撃されることを恐れ、寺を焼き払ってしまった。
その当時の彼らのいで立ちは、頭に、小さく丸く高くとがった陣笠(じんがさ)をかぶり、そこには有馬家の定紋(じょうもん)、「釘抜(くぎぬき)紋」をつけていた。上着は帯刀(たいとう)に便利なように、背縫いの下半分が割れた打裂羽織(ぶっさきばおり)。そして下履きは、主に布地は木綿。縦縞の小倉織(こくらおり)や紋(もん)散らしの金巾(かねきん)などでつくられ、裾口に太い白紐があり、裾をキュッとすぼめることができるのが特徴的な、丈の短い義経袴(よしつねばかま)で、脛(すね)に脚絆(きゃはん)をつけ、足袋に草履。腰には両刀を差し、更に小銃の弾薬を入れたブリキの長箱の上に革を被せた小かばん(胴乱、どうらん)をつけ、鉄砲を肩に担いだものだった。