埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた (4/8ページ)

心に残る家族葬



■飯能では幕末に飯能戦争が行われた

また、飯能といえば、実は幕末期に「飯能戦争」があった「場所」でもある。

飯能戦争とは、いわゆる戊辰(ぼしん)戦争、すなわち慶応4(1868)年1月3日に旧江戸幕府方と明治新政府方との間で起こった、京都の鳥羽・伏見の戦いから、翌年5月の蝦夷(えぞ、現・北海道)の箱館(はこだて)戦争に至る大規模な国内戦において、飯能を舞台にしたものだ。慶応4(1868)年5月23日(新暦の7月12日)未明に始まり、その日の午前中で終結した。ことの起こりは、江戸城明け渡しを不満に思う幕臣たちが、武蔵国血洗島(ちあらいじま、現・埼玉県深谷市)出身で、一橋家・徳川慶喜(1837〜1913)の家臣、かつ明治・大正期の大実業家・渋沢栄一(1840〜1931)のいとこでもあった渋沢成一郎(1838〜1912)を頭取とする彰義(しょうぎ)隊を結成し、官軍(明治新政府方)との徹底抗戦を主張して上野の山に立てこもっていた。しかし、戦闘のあり方について意見の相違が生じたことから袂を分かち、改めて成一郎・尾高惇忠(おだかあつただ、1830〜1901)らによって結成された振武(しんぶ)軍は、多摩郡田無村(現・西東京市)に集結し、様子を窺ったり、軍資金調達に奔走したりしていた。そんな折、上野戦争の敗北を知った振武軍一行は、先の彰義隊の敗残兵や農民兵なども仲間に加えつつ、飯能に向かった。

一方、5月15日の上野戦争を終結させた官軍側は、残党たちの壊滅のため、飯能方面に進軍することとなる。戦いは振武軍の総勢約500人が、官軍側である、地元の川越藩(現・埼玉県川越市)、忍(おし)藩(現・埼玉県行田市)、岩槻藩(現・埼玉県さいたま市岩槻区)に加え、備前国岡山藩(現・岡山県)、筑前国福岡藩(現・福岡県福岡市)、筑後国久留米藩(現・福岡県久留米市)、肥前国大村藩(現・長崎県大村市)、日向国佐土原(さどわら)藩(現・宮崎県宮崎市)などの藩兵、総勢約3000人と戦ったものだ。
「埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る