埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた (5/8ページ)
■飯能戦争とはどんな戦争だったのか
ここで舞台が何故「飯能」だったのかというと、先に述べたように、市(いち)が立ち、栄えていた飯能近辺の17ヶ村は、頭取の成一郎が仕えた一橋家の所領だったため、領民から兵糧の補給が見込めること。それに加えて、飯能から秩父の山岳地帯はもちろんのこと、場合によっては山を越えて甲州(現・山梨県)や信州(現・長野県)に敗走することができる「地の利」の良さがあったからだと言われている。
たった半日の戦いの結果だが、振武軍は小銃などで戦ったものの、多勢であったことに加え、当時最新鋭の大砲などの火器を多用したことから、官軍側が圧倒的勝利を収めた。この戦いで、振武軍の本陣となった能仁寺(のうにんじ)に加え、軍が駐屯していた智観寺(ちかんじ)・広渡寺(こうどじ)・観音寺(かんのんじ)の4寺が焼けた他、飯能村・久下分村・真能寺村・中山村の4村で200軒が焼け落ちてしまったという。また、犠牲者数だが、官軍側の藩兵を参謀として指揮した、大村藩の渡辺清左衞門(後の渡辺清、1835〜1904)によって、飯能戦争鎮静後に提出された、東征大総督(明治政府が、旧幕府軍を制圧するために設けた、臨時の軍司令官)宛の「届書(とどけがき)」では、「此日討取処之賊骸山林原野に横(よこたわ)り其数不分明、生捕共凡五六十人深浅手員数不知」(この日討ち取った敵方の死骸は山林原野に横たわり、その数はわからないが、捕縛者は5~60人いた。深手を負った者、浅い傷だった者の数は数知れず(無数にいた))と記されていた。しかし明治31(1898)年2月、渡辺が「史談会」の取材の際、自身が当時の戦いで負ったという顔の傷を示しながら、「死骸を埋めた跡を見ると大抵六七人の死亡のやうです、其内(そのうち)銃手(じゅうしゅ、射撃手)か(が)三四人頭分(かしらぶん、首領)か(が)二三人と云ふ位のことで、戦争と云ふ程でなく百姓一揆を追散らす位のことであつた」、すなわち、死者は6〜7人で、そのうち、射撃手が3〜4人、首領が2〜3人程度。「戦争」というほどではなく、「百姓一揆」を追い散らす程度のものだったと語っていた。30年の時を経て、犠牲者数が10分の1に減っている理由は不明だが、恐らく渡辺は、「大したことはなかった」と強調したかったのだろう。