埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた (2/8ページ)

心に残る家族葬



■東京の日本橋の水天宮

そして東京・日本橋の水天宮だが、江戸後期の1818(文政元)年に、水天宮を深く崇敬していた10代藩主・頼徳(よりのり、1797〜1844)が、芝赤羽橋(現・東京都港区三田)の藩邸内に遥拝所を設けたことがはじまりだ。とはいえそれは「うちうち」のものにとどまらず、近在の人々までもが水天宮への信心から、塀越しにお賽銭を投げることが多々あったため、有馬家は毎月5日だけ屋敷の門を開き、参拝を許していた。それから有馬邸の数回の移転の後、1872(明治5)年に、現在地に移ったものである。水天宮への人々の信心は大いに広まり、1885(明治18)年には、「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)」と題する歌舞伎がつくられるほどだった。

■水天宮の祭神

このような水天宮の祭神は、『古事記』(712年)に描かれた、天地開闢(てんちかいびゃく)の際、最初に現れた神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、そして先に登場した安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼の四神である。しかし「水天宮」そのものは、平家一門関連に限ったものではなく、古来より「暴れ川」で、一夜で川の流れが変わることが多々あったため、「一夜川(いちやがわ)」とも呼ばれていた筑後川の水難を除いたとされる水の神が祀られていたものがはじまりだと言われている。そして、久留米の水天宮に関し、最も古い記録とされる『寛文十年久留米藩社方開基』(1670年)によると、当時の祭神は「尼御前大明神」を中心とし、千年川(ちとせがわ、筑後川の旧名)の水神で、その左方に川の氾濫の原因となる荒ぶる御霊である「荒五郎(あらごろう)大明神」、右方に安徳天皇の和魂(にきたま、柔和な御霊)である「安方(やすほう)大明神」を伴っていた。更にこの「尼御前大明神」は、按察使局伊勢ではなく、二位の尼のことを差していた。しかも『筑後地鑑』(1681年)によると、筑後川の支流・巨瀬川(こせがわ)のそばに鎮座する庄前(しょうのまえ)神社に祀られた水神こと、あの、栄耀栄華を誇った平清盛(1118〜1181)と二位の尼は夫婦であるため、二神が筑後川で逢う時は必ず、川が氾濫してしまうと信じられていたという。
「埼玉県飯能市の歴史や飯能河原のそばにある水天宮について調べてみた」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る