「鎌倉殿の13人」畠山重忠を始末した時政・りく夫婦。しかし…第36回「武士の鑑」予習 (5/8ページ)
ただちに討って参ります」と言いながら、時政夫婦を伊豆の奥山へ幽閉。その後、彼らの行方はどうなったのであろうか。
実朝は時政を討つよう命じたところ、義時はこれを受けて時政らを伊豆の山中に幽閉。その後は行方知れず……ちゃんと殺したのか、あるいは匿ったのか。いずれにしても、時政夫婦は歴史の表舞台を去ったのでした。
平賀朝雅の最期同二十六日に朝政(朝雅)をば京都にて討れけり。朝政此事争か知さるべきなれ共、女の姓の計に付けるにや又老耄の故にてやありけん。不思議也れ事共也に、二位殿の御計にて義時を時政に替へて将軍の執権とし相模守とぞ申ける。
※『保暦間記』重忠被誅より
【意訳】7月26日、平賀朝雅が京都で討たれた。事前に(討手が向けられることを)知らされるべきではあったが、牧の方はそこまで気が回らず、時政はすっかり老いていたため抜かってしまったのであった。果たして政子の計らいによって義時は第2代執権に就任、相模守の官職を授かったのである。
……時政夫婦に担がれた朝雅も粛清し、義時を第2代執権につけて(ひとまず)一件落着。政子が尼将軍ぶりを発揮して、鎌倉を取り仕切っている様子がわかります。
まだ幼い実朝に代わって鎌倉を取り仕切った尼将軍・政子。菊池容斎筆
ここまでの流れについて、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と、『保暦間記』を比較してみましょう。